Fallen 1




「カカシさん。別れて下さい。」

頑固に繰り返す俺に、銀髪の上忍がいかにも不快気に眉を顰める。
「・・・・あんた、ほんっと偉そうだよね。」
吐き捨てるように言うと、すっと畳から立ち上がる。背中を丸めてポケットに手を突っ込み、視線も
合わせずに俺の脇を通り抜けていく。
「・・・中忍風情が。」
背後から忌々しげに投げつけられた一言に、ぐっと拳を握り締めた。
耐えろ。ここで反論したら、また泥沼だ。
無言で俯く俺に、カカシがふんと小さく鼻を鳴らす。いかにも馬鹿にしたようなその仕草に、カッと
怒りが湧き上がった。が、何とかその怒りを抑え、ぐっと唇を噛み締めて沈黙を守った。
と、ふいにカカシの気配が消えた。
ハッと顔を上げると、既に銀髪の上忍の姿はどこにも無かった。思わず溜息を洩らした。
ああ。これでやっと。
ゆっくりと立ち上がり、玄関に向かう。扉にしっかりと錠を掛けながら、もう一度大きな溜息を吐いた。

これでやっと、俺は自由に息ができるんだ。

カカシとの付き合いは気苦労の連続だった。
ある日突然、好きだと言ってきた銀髪の上忍。
勿論、驚いた。
相手が男、というのも勿論そうだが、何より俺はこの上忍とろくに話もした事も無かったのだ。
俺にとって、カカシはせいぜい、ナルトの上官、という程度の認識しかなかった。
うろたえる俺を気にした風も無く、銀髪の上忍が淡々と話を続ける。
これからSランクの任務に赴く。その任務で、おそらく自分は死ぬ。だから死ぬ前に一度、あんたと
寝ておきたい、と平淡な声で打ち明けられた。

嫌も応も無かった。
死地に赴く忍の願いは、大抵聞き入れられるのが里の通例だった。
そして、カカシの申し出は、忍社会ではそれほど非常識な要求でもなかった。
女の影すらない戦地で、同性相手の行為を覚えてくる者は多い。一部の者は、里に帰ってからも
その行為を求めるようになる。それは内勤の自分ですら、良く聞く話だった。
まして、カカシは里の宝とも言うべき凄腕の上忍だ。その上忍たっての依頼となれば、拒否できる中忍など
いるはずが無かった。


カカシもそれを充分に弁えている風だった。淡々とした口調にはどこか、断られるはずがない、という
強い確信が感じられた。
「・・・じゃ、いい?」
カカシが静かに尋ねる。ゆっくりと伸ばされる長い指に、息を詰めて眼を瞑った。

結局、カカシは死ななかった。
一週間後、無事に里に帰ってきた。
が、流石に無傷では無かった。戻ってきたカカシは全身ボロボロだった。
それなのに、この上忍はその治療もそこそこに俺の家にやってきた。傷だらけの身体で玄関に立ち、
帰ってきたよ、と垂れた目尻を下げてニコリと笑う。
その笑顔に、思わずほだされた。
おそらく死ぬ、と言い切っていた男。死ぬ前に一度だけと肌をあわせた相手。
その相手が、今こうして無事に目の前で笑っている。
熱いものがぐっと胸に込み上げてきた。カカシが生きて帰ってくれた事が、心底嬉しかった。
お帰りなさい、とまるで昔からの恋人を招き入れるようにカカシを家の中に入れた。
そして、俺はこの男と正式に付き合う事になったのだ。

今思えば、俺は判っていなかったのだ。
上忍、それも里随一と謳われる上忍と付き合うというのが、どういう事か。
忍の中でも抜きん出た能力を持つ上忍は、皆一様にプライドが高い。その上忍達の中でも、カカシは
トップクラスの実力の持ち主だ。
当然、そのプライドも抜きん出て高いものだと、最初に気付くべきだったのだ。

カカシは直ぐに俺に不満を覚えるようになった。
里随一の上忍は、尽くされる事に慣れきっていた。美しく、それでいて良く気の付く女達が、この若く
有望な上忍を下にも置かない献身ぶりで尽くしていたのだ。

カカシもそれを当然と享受してきた。
だから、ただの無骨な男に過ぎない俺に落胆するのも早かった。
気が利かない。自分の要求を察する事が出来ない。
はっきりとそう言われた。
特にカカシの前で持ち帰りの仕事などしようものなら、心底嫌そうに唇を歪ませられた。
「・・・先生、それ嫌味?折角俺が来てんのに、何でそういう事すんの?俺に帰って欲しいの?」
「は?いや、そ、そういうわけじゃ・・・」
驚く俺に、カカシがふぅと呆れたような溜息を漏らす。
「・・・じゃなきゃ、先生、よっぽど気ぃ利かないね。俺が明日から任務だって、知ってるでしょ?
そういう時はそんな仕事、後に回すのが普通じゃない?」
「あ・・そ、そうですね。すみません。」
わたわたと巻物を仕舞う俺に、カカシがもう一度溜息を漏らす。
「・・・今までのは、こんな事無かったんだけどねー。」
聞えよがしに呟かれた一言に、流石にムッと顔をあげた。
「なら別に・・・」
「ま、いーよ。これから気をつけてくれりゃ。」
カカシがするりと俺の話を打ち切る。カカシの口調はいつもそうだった。飄々としてるくせに、どこか
こちらの反論を許さぬ力があった。その度、返す言葉を失った。
眉を顰めて口篭もる俺に、カカシがふいと視線を逸らす。
自分から好きだと言い出したくせに、この上忍は俺の何もかもが気に食わないようだった。

それでも、最初は笑っていられた。
不本意そうに洩らされる愚痴を、何とか笑って流す事ができた。
天才の名を欲しいままにしてきた男だ。このくらいの傲慢さは、仕方が無いのかもしれない。
そう半ば自分に言い聞かせるように、カカシの放言に応じていた。
けれど、それは長く続かなかった。
時間が経つにつれ、カカシの態度が益々高圧的になっていったからだ。

カカシのプライドの高さは筋金入りだった。
まず、この有名上忍は俺の不在が許せないのだった。
疲れて家に帰った途端、なんでいないの、と待っていたカカシが咎めるように言う。
「・・・すみません。最近、ちょっと忙しくて。」
頭を下げて答える。と、途端に銀髪の上忍は不快気に顔を顰めた。
「でも、今日は俺がいるって判ってたデショ?」
自分が里にいる時は、当然自分を最優先にすべきだ。そう言わんばかりの口調でカカシが尋ねる。
俺にも仕事があるんです。そう言いたいのを、ぐっと堪えた。
それを言えば、カカシが鼻で笑いながら言うのが分かっていた。
あれが仕事?と。

カカシは俺が「仕事」と言う度、そうやって笑い飛ばした。
当然、いい気はしなかった。
が、やはり正面きって言い返す事は出来なかった。
『木の葉は上忍の質でもっている。』
その評判は、忍の世界では常識だ。優秀な上忍達が、困難な任務を的確にこなすからこそ、木の葉は
忍の一大大国の地位を保ち続けているのだ。
勿論、上忍だって忍社会の歯車の一つには変わらない。が、その重要性は中忍とは比べ物にならない。
上忍は必要欠くべからざる歯車だ。
一つや二つ抜けても、何ら支障のない歯車の中忍とは、全く重みが違うのだ。

まして、カカシはその重要な歯車の中でも、特に貴重な一級品だ。
今現役の忍で、カカシほど高ランクの任務をこなしてる男はいない。そのカカシからすれば、アカデミー
の教師だの、受付事務の仕事だのは、生温さの極地だろう。
実際、カカシの口調はそうだった。
危険な任務を数多くこなして、里を支える上忍の自分。それが、たかが内勤の中忍風情に待たされた。
それが不快で仕方が無い、という感じだった。
「すごいね。俺、こんな扱い受けたの初めて。」
凄腕の天才上忍が、皮肉な口ぶりで俺の顔を覗き込む。内心大きな溜息を吐きながら頭を下げた。
「・・・・すみませんでした。今、飯の用意します。」
「ああ、いいよ。もう面倒デショ?何か買ってきて食おうよ。俺も待たされるの嫌だし。」
カカシが鷹揚ぶった口調で答える。いかにも、許してやる、と言う風情だった。

それでも、ようやくカカシの機嫌が直った事にホッとして尋ねた。
「あ、じゃついでに外で食いますか?ええと、一楽とか・・・・」
その時ふと、ある光景を思い出した。思わず口元がにまりと緩んだ。
「そう言えば、この間行った時は大変でしたねえ。」
明るい声でカカシに話し掛ける。つい先日、カカシと二人で食いに行った一楽で、偶然シカマル達と
一緒のナルトに捕まった。そして結局、全員に奢らされた。まるでアカデミー時代のようにはしゃぎまくる
子供達に、自分も久々に担任気分丸出しで叱ったり世話を焼いたりした。
ナルトに至っては、カカシ先生邪魔だってば、と無理やりカカシを押しのけて自分の隣に割り込んで
きたりした。
くつくつと思い出し笑いをする俺に、カカシがまた嫌そうに口元を歪める。
「・・・いいよ。他所で買ってきて、ここで食おうよ。俺、ほんとは外で食うのあんまり好きじゃないし。」
「え?あ、そうだったんですか?」
慌てて緩んだ表情を引き締めて聞き返した。カカシが、ねぇ先生、と呆れ果てたように銀色の頭を掻く。
「・・・・そういうのも、俺が言わなきゃ察せない?」

その瞬間、どっと身体に疲れが回った。
吐き気めいた苛立ちが、みるみる全身を覆っていく。ぐっと強く唇を噛み締めて思った。
どうして、こんな事を言われなければならないんだ。
何で疲れて家に帰ってまで、こんな嫌味を言われなきゃならないんだ。

こみ上げる怒りに、固く握り締めた拳が小さく痙攣した。
嫌味なら、もう外で散々言われてきた。
『さすが、上忍をバックに持つ奴は言う事が違うね。』
『まあ「写輪眼のカカシ」クラスなら、尻差し出す甲斐があるってもんだよなぁ。』
子供の時から天才で通って来たカカシは知らないだろうが、上忍のカカシと中忍の俺が付き合えば、
俺はそういう眼で見られるのだ。上の力欲しさに、媚びを売っていると思われるのだ。
それが、下の者の常なのだ。

だからこそ、こんなに帰りが遅くなったのだ。
『うみのイルカは上忍の威光を嵩にきて、課せられた仕事も満足にしない。』
そう思われるのだけは嫌だった。その為には、誰よりも熱心に仕事をこなす必要があった。
そんな口さがない噂を封じるだけの、努力を見せる必要があった。だから帰れなかった。
今日はカカシが家に来るかもしれない。
そんな理由で仕事半ばで帰る事など、絶対に出来なかった。

けれど、それはカカシには理解できないだろう。
最年少で上忍となった天才忍者には、そうした気苦労など全く理解できないに違いない。
吐き捨てるような気持ちで思った。
きっと、これに対しても、俺は謝らなくちゃならないんだろう。この天才上忍に。
気が利かなくて申し訳ありません、と頭を下げなきゃならないんだろう。

でも、どうしてだ?

今まで無理矢理目を逸らしていた苦い疑問が、一気に胸の中に湧き上がる。
なんで、俺はこんな外での上下関係そのままの生活をしなきゃならないんだ?
俺はこんな窮屈な暮らしがしたかったのか?
「何?具合でも悪いの?」
黙るこくる俺に、カカシが不思議そうに尋ねる。
「・・・・何でもありません。じゃあ俺、何か適当に買ってきます。」
押し殺した声で言うと、カカシは不審気に首を傾げた。
「は?いいよ。一緒に行けばいいでしょ?」
「いいです。ここで待ってて下さい。すぐ戻りますから。」
間髪入れず答えた。カカシがスッと色違いの眼を細める。
「・・・・ふぅん。じゃ、ま、いいよ。行ってきて。」
「はい。」
顔も見ずに立ち上がった。玄関を出た瞬間、大きく息を吸い込んだ。夜に冷やされた新鮮な冬の空気は、
びっくりするほど美味かった。それで、初めて気が付いた。
このままでは、俺は息が出来なくなると。

常にカカシの機嫌を気にし、息を殺して顔色をうかがう。
息一つ吸うにも気を使い、吐き出す息は、全て自分の至らなさを謝る事に費やされる。
そんな生活を続ければ、俺は窒息してしまう。
カカシという重圧に、押し潰されてしまう。

言ってみようか。

夜空に消えていく白い息を見ながら思った。
家に戻ったら、カカシに言ってみようか。
これ以上、「上忍と中忍」の生活を続ける事は出来ません。このままでは、俺は息が詰まってしまいます。
上下関係で俺を縛るのは、もうやめて下さい。
そう言ってみようか。
聡い男だ。俺が本気で訴えれば、少しは譲歩してくれるようになるかもしれない。
そう思うと、急に視界が開けた気がした。
久々に明るい心持で、俺は足取りも軽く惣菜店に向かった。


カカシの反応は予想外だった。
飯を食って一段落した後、もう「上忍のカカシ」とは付き合えません、と言葉を選びながら伝えた。
カカシは何時ものように邪険に俺の話を遮らなかった。無言のまま、最後まで話を聞いていた。
良かった。これなら上手くいきそうだ。
そう思って胸を撫で下ろした瞬間、銀髪の上忍は静かな声で言い放った


「上忍の俺だから寝たくせに、今更何言ってんの?」


「・・・は?」
思わず眼を見開いて尋ねた。銀色の男が冷たい声で言葉を続ける。
「あんたがあの時俺と寝たのは、俺が上忍だからでしょ?違う?」
冷たく乾いた声で問われる。ぐっと言葉に詰まった。違うとは言えなかった。確かに、あの時俺が一言も
拒否せず承諾したのは、カカシが上忍だったからだ。
カカシがそれ見たことか、という表情を浮かべる。
「・・・ああ、ごめん。それだけじゃないね。」
強張る俺の顔をちらりと見て、投げやりに訂正する。
「あと、俺が「死ぬ」って言ったからだね。上忍に「最後の望み」なんて言われたら、真面目中忍のアンタ
にゃ到底断れないもんね。」
広い肩がひょいと竦められる。
「大体、今の話じゃ、あんたにもメリットがあるわけでしょ?仕事だって、逆に俺が待ってるから、って
言えば断われるってコトじゃない。割り切って、特別待遇受けてれば?変な意地張ってないで。」
色違いの瞳が、醒めた眼差しで俺を見下ろす。
「あんたが俺と付き合ってるの、俺が上忍だからでしょ?それなのに今更「上忍の俺」は嫌?疲れる?
先生、身勝手にも程があるってモンじゃない?」
怒りを滲ませた低い声が、静かな部屋の空気を震わせる。
「あんた一体、何様のつもりなの?」

頭の中が真っ白になった。
すんでの事で、カカシに殴りかかりそうになった。
そんな理由だからじゃない。この男の放言に耐え、男娼と囁く周囲の陰口を、歯を食い縛って聞き流して
きたのは、カカシが上忍だからじゃない。
カカシが、笑ったからだ。
カカシが、帰ってきたよ、とボロボロの身体で俺に笑いかけたからだ。
自分の命を宝物のように、俺に誇らしげに見せたからだ。自分が生きて帰った事を、俺が喜ぶと信じて
くれたからだ。子供のように無邪気に、そう信じてくれたからだ。
その信頼が、その俺を信じきった笑顔が、他の何にも代え難いものに思えたからだ。

けれど、それは幻想だった。

カカシは俺を信じていた訳ではなかったのだ。
カカシは己の価値を信じていたのだ。
里一番の上忍で、誰もが一目置く天才忍者、という自分の価値を。
その価値に、俺が目が眩んだと信じていたのだ。

ふいに眼の奥が熱くなった。
込み上げる涙を、必死で抑えた。自分の惨めさに、笑い出したくなった。
そうか。俺は、そういう奴だと思われていたのか。
だから、この男はあんな態度だったのか。何時までも、「上忍」と「中忍」の関係を崩そうとしなかったのか。
気が利かないと罵倒されて当然だ。中忍風情と馬鹿にされて当然だ。
この男は俺を、金目当ての商売女のように思っていたんだから。
俺ははなから、この男に軽蔑されていたんだから。

ふざけるな。

ぐっと拳を握り締めて思った。
ふざけるな。それなら、俺にだって意地がある。
いいだろう。今更この男を詰るような真似はすまい。馬鹿にするなと喚き散らすような、みっともない姿は
晒すまい。
この男と別れよう。そしてもう金輪際、この男には近づくまい。
カカシに上忍のプライドがあるように、俺には俺のプライドがある。
上忍の力目当てに身体を差し出す奴。
そう俺の事を決め付けたカカシに、尻尾を振って近づくような真似は決してすまい。

真っ直ぐにカカシの色違いの瞳を見詰めた。
まだ激しく痛む胸を抑え、大きく息を吸い込んだ。もう、これ以外の言葉を交わすつもりは無かった。
カカシに向かって、ゆっくりと、はっきりとした声で言った。


「カカシさん。別れて下さい。」






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